伊庭靖子「まなざしのあわい」(東京都美術館)/クリスチャン ボルタンスキー「ライフタイム」(国立新美術館)/塩田千春「魂がふるえる」(森美術館)



作家名/作品名:塩田千春《不確かな旅》
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作家名/作品名:塩田千春《小さな記憶をつなげて》
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作家名/作品名:塩田千春《静けさのなかで》
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作家名/作品名:塩田千春《集積―目的地を求めて》
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作家名/作品名:塩田千春《集積―目的地を求めて》
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夏期講習B日程とC日程との間の中休みを利用して、東京に展覧会を3つ観に行ってきました。

 

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まずは上野公園の中にある東京都美術館で開催中の伊庭靖子「まなざしのあわい」展です。展覧会場の掲示によると伊庭さんは元々は版画専攻だったとのことですが、90年代に絵画作品を制作し始めた時から一貫して、モチーフ(始めはクッション、それ以降は皿やお椀、花器など)を写真撮影しそれを油彩で描くという手法を続けて来られたようです。

伊庭さんの作品は、これまで美術雑誌などの図版で見たことがありましたが、おそらく実物を観るのは初めてです。

 

実見してまず思ったことは、その作品が意外に大きかったことです。かなり大きなキャンバスにクッションや、器物とその周りの空間が緻密に描かれています。

クッションの作品では、クッションの刺繍の模様、布のシワやつなぎ目のズレなどが大きなキャンバスに浮かび上がり、それによって画面を構造化しています。じっと見つめていると、クッションの形や色がキャンバスの形や色と親和的であることもあって、クッションのヴォリュームよりは、表面の(刺繍の模様、布のシワやつなぎ目のズレなどの)ニュアンスの様子が、平面化されオールオーヴァーな絵画空間となって見えてきます。

 

次に思ったことは、油彩画であるのに筆あとがほとんど見えないということです。絵の表面はマットでやや粒々した感じなので、もしかしたらエアブラシで描いているのかな?と思って観ていたのですが、会場に置いてあった本展の図録を見てみると、どうやら筆を縦にして叩くように描いている(つまり筆の毛の幅で微細に点描している)との事です。静謐な印象の画面なのであまりその仕事量を意識させませんが、大きな画面の隅から隅まで筆の毛の幅で点描していることは、考えてみると驚きです。そしてそれは、写真表面をつくっている微細な粒子のシミュレーションなのかもしれないとも思いました。

 

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会場内で斜め読みした本展図録に所収のテクストでは、二人の書き手が伊庭さんの絵画を読み解くためにモネやリヒターの名前を登場させているようでした。私自身は、フェルメールみたいだな、と思いながら観ていました。(もしかしたらテクスト中にフェルメールも出てきているかもしれません。)

近作の、アクリルボックスの中の器物とそのアクリル板に反映する周囲の状況をモチーフとした連作では、その全てを一旦写真に撮ることによって、器物とアクリル板に映った器物の像、アクリル板の正面に写った像や背後の風景、そしてアクリル板そのものなど、すべての像が反映し合い、ヴォリュームやパースペクティブを失い、光の振る舞いのもたらすイリュージョンに還元された上で、キャンバスに描かれています。フェルメールも、「現実」の風景をカメラオブスキュラのレンズを通して見、その暗箱の中の光の振る舞いとして捉えることで、世俗的な光景を描きながらもどこかこの世のものでないような不思議な感覚を画面に与えています。ただ、フェルメールはそのようにして得られたイリュージョンに再度ヴォリュームやパースペクティブを与え、「現実」的なものに構築し直しますが、伊庭さんの絵画は、アクリルボックスというイリュージョン化のための装置を用意し、それを撮影することによって実体や奥行きが失われ圧縮された状態で印画紙上にフラットに並んでいる光の振る舞いを、そのまま丹念に画面上に再現しているようです。

 

伊庭さんの、フェルメールの絵画との空間的な違いは、印象派やキュビスム、抽象表現主義などを経た後の絵画として必然であるように思えます。しかしその一方で、カメラによって得られたイリュージョンを定着する術を持っていなかったフェルメールの時代とは異なり、アクリルボックスというイリュージョン化のための装置を撮影し印画紙に定着した時点で作品の意図は完結しているのではないだろうか?それをあえて絵画にするとき、写真の段階からの何らかの空間的な差異が生じていなくてはならないのでは?という疑問も生じてきます。

 

もしかしたら、「まなざしのあわい」という展覧会タイトルが物語っているように、印画紙上に圧縮されフラットに並んでいる光の振る舞いを、絵画として描くことによって解きほぐすこと、アクリル板上に現れる像が重なり反映し合う、そのレイヤー相互の「あわい=間」を再認識することが試みられているのかもしれません。

 

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 地下鉄で乃木坂に移動し、国立新美術館で開催中のクリスチャン ボルタンスキーの個展「ライフタイム」を観に行きました。(同展は、今年の春に大阪の国立国際美術館で開催されていましたが、その時は観に行きませんでした。)

 

ボルタンスキーの個展は、3年ほど前に白金台の東京都庭園美術館で見たことがあります。(※その時のことは少しですがブログに書いたことがあります。)旧朝香宮邸のアールデコ調の内装の美術館の中で、ボルタンスキーの作品がその空間と関係を持ち合う様子がユニークでしたが、その一方で、個性的な空間の中で作品そのものが見えてきにくく、あまり強い印象を持てなかったのも事実でした。

今回の個展では、国立新美術館の無機的で大きな空間の中、作品のスケールとしても量としても十分なものを見たような気がします。

 

匿名の個人の不鮮明な白黒写真、心臓の鼓動音とともに明滅する電球、ブリキの箱に入った故人の遺物、山のように積み上げられた黒いコート、怪しく光る「来世」という電飾、揺らめく影絵、壁一面を覆う衣服・・・・など、50年に渡る作家活動の中で制作された幅広いバリエーションの作品が並んでいましたが、どの作品を見ても、無常感というか寂寥感というか、そんな感じを抱いてしまうのです。「存在の儚さ」、作品を観ながらそんな言葉も浮かんできます。

 

ただ近作の、その土地の精霊を召喚するかのように鳴り響く鈴を延々と撮影した映像作品や、海辺に設置したラッパ状のオブジェで鯨との交感を試みる様子を撮影した映像作品では、寂寥感を感じるのは同様でありながらも、未知の何かとの出会いを試み、待つ、という点で何かそれ以前の作品とは違うものを感じました。

 

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国立新美術館から歩いて六本木の森美術館へ移動し、塩田千春展「魂がふるえる」を観に行きました。

塩田さんの作品は、昨年も京都文化博物館で「胡蝶の夢」と題された、旧日本銀行京都支店の空間を使った大規模なインスタレーションを観ましたが、何より、4年前にヴェネツィア・ビエンナーレの日本館で観た圧倒的な展示が今も強く記憶に残っています。(その時のブログはこちらです。)

 

今回の個展の第1室に展示されていた「不確かな旅」という作品は、4年前にヴェネツィアで観た「The Key in the Hand」という作品とよく似ていますが、感じた印象はかなり異なるものでした。

 

「The Key in the Hand」では、古い木造の廃船から立ち上がり部屋中を覆い尽くすように織りなす赤い糸のネットワークに無数の古鍵が吊るされてあり、赤い糸のネットワークと同様に、その鍵の象徴的な意味が重要なテーマになっていたと思います。

赤い糸のネットワークは、仏教における「縁起」をヴィジュアル化したものなのでしょうか。そしてその赤い糸に吊るされている鍵。

鍵があるということは、どこかにそれに合う扉がある、ということですが、鍵が作品の中で使われ現実には不要になっているということは、それに合う扉はもう無いかもしれない、ということも想像させます。宙吊りにされた鍵が、出会いへの可能性と、もう決して出会うことはない喪失感とを同時に感じさせ、そしてそれが複雑な関係性のネットワークの中で無数に存在する。それが目前に現れている様子をその時、私は、優れて「リアルなもの」として感じました。そしてそれは私にとっては東日本大震災における津波によって流されてしまった無数の「扉」をも想起させるものでもありました。

圧倒的な物質感やスケール感を伴う作品でありながら、それに留まらず、さらにその外部への想像力や啓示の力に富んだものとして現れていたのです。

 

今回の個展での「不確かな旅」では、船形が非常に抽象的なものとして扱われる一方、「The Key in the Hand」における鍵のような存在がないため、赤い糸のネットワークそのものに注目がいくようなものとなっています。その赤い糸が部屋を覆い尽くす様子を歩き回りながらじっと見つめていると、なにかその様子が血管や筋肉繊維のようなものとして感じられ、あたかも体内にいるかのように感じられました。

「The Key in the Hand」に比べて抽象度が高まったことで、逆に黙示性は弱くなりましたが、その分、意味の多義性は増したかもしれません。

 

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今回の森美術館での個展は、これまでの塩田さんの制作の全貌を紹介するものだということです。初期のパフォーマンスの写真や映像、ドローイング、携わった舞台美術を紹介するパネルの展示もありましたが、それを除けば大作が概ね4つくらいのセクションに別れて展示されています。上述の「不確かな旅」のほか、ミニチュアの家具類が赤い糸で関係付けられて並べられている「小さな記憶をつなげて」、焼け焦げたピアノや椅子が黒い糸のネットワークに覆われている「静けさのなかで」、そしてたくさんのスーツケースが赤いロープで吊るされている「集積ー目的地を求めて」、などです。それらの作品のどれもが、観る者に新鮮な驚きの感覚を与え、多様な解釈に誘うとともに、外部に向かう想像力を喚起する、力のある作品群だと思いました。

 

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「集積ー目的地を求めて」では、吊るされたたくさんのスーツケースはひとつながりの流れとなって徐々に上昇していくのですが、その中にところどころでモゾモゾと動いているものがあります。中に電動の振動子でも入っているのでしょうか。動いているスーツケースの周囲にある別のスーツケースもそれにぶつかってゆらゆらと動いて、大きく見るとスーツケースの流れが波打っているようでユーモラスな眺めです。

 

ギャラリーのベンチに座ってその動きやスーツケースの影が床に落ちるその表情を眺めていると、突然、小さな女の子が現れ、そんなスーツケースの動きに合わせて大きく手を広げながらダンスをし始めました。私はその光景を羨望の気持ちとともに見ていました。女の子はスーツケースの動きに素直に反応し、その身体で作品を鑑賞し、そしてそのことを身体を使って現しています。作品との交感。作品と一体になること。「これが正しい鑑賞の仕方だな」とその時思いました。(Y,O,)