








ここで思い出されるのが、岡崎氏と浅田彰氏が2004年に京都大学で行った対談での発言です。(「季刊インターコミュニケーションNo.58 Autumun 2006」所収)
この対談の中で岡崎氏は、ボードレールが「現代生活の画家」の中で述べた「恢復期」という概念を紹介しています。
「恢復期」というのは一度死を経験した存在、つまり歴史の外に排除された存在ーその人はもう存在しないという状態に至った、例えば死病を通過したが復活した、それにもかかわらずまだ生きているという状態です。こうした「恢復期」の知覚というものを、歴史に拘束されない知覚を得るためのモデルとして提起したわけです。(中略)
けれど、ちょっと話は飛びますが、じつは、文学や映画、芸術で発見されてきた子供というのは、つねにボードレールの言う恢復期の特徴を帯びていたのですね。(前掲書より抜粋)
そして、恢復期の特徴を帯びた子供の例として、ロベルト・ロッセリーニの映画「ドイツ零年」(1948)を紹介し、この映画の最後の15分間、死を覚悟したエドモンド少年が、市街を彷徨い無目的に生き生きと遊ぶシーンの中に、「彼はこうした死を通過した恢復期の中でのみ、はじめて子供である自由」を得たのだということを見ます。
またさらには、ジャドソンチャーチ派のコンテンポラリーダンスにおける試みなどを挙げた上で、
歴史や視覚空間という、あらかじめ枠が定められ確定された時間・空間の全体的な形式に回収されえない、「いま、ここ」にだけ生じる「出来事」、知覚、生をいかに確保するかという主題はここでも共通していたわけです。(中略)
この覚醒はこうした歴史の外に出ること、あえて自明の形式に対するハンディキャップを抱えることなしには得られない(前掲書より抜粋)
と述べています。そして最後に浅田氏が、「老衰期の底を突き抜けるようにして『子供になること』の生成変化を生きることが重要だというわけです。モダニズムはまさにそのようなヴェクトルを通して、マネやボードレールからセザンヌやランボーへと生成変化していった。このような形でモダニズムを見直すことは、今もきわめて大きな示唆を与えてくれるだろうと思います」とまとめています。
今から20年ほど前の対談ですが、今回の岡崎氏の展覧会を観て、これら上記の発言が、まさに最近の作品の中に具現化しているようだなと感じました。死の底を突き抜けたことで「子供」として生成変化した岡崎氏が、描くたびに新しい自分として新しい絵を際限なく描き続けているかのようです。
次から次へと出てくる絵画の森を通り抜けると、展覧会の最後にまたとんでもない彫刻群が待っていました。まさに「なんじゃこりゃ〜!」というものでした。それにしても、あんなデカい粘土の塊をひり出す巨大な土練機って存在するんですね(笑)。(6/22追記:・・・と思っていたら、NHK「日曜美術館」で本展にちなんだ岡崎氏の制作風景が紹介されて、あの彫刻群は小さい粘土の彫刻を3Dプリンターで拡大したものだということがわかり、2度びっくりです。)
とりわけ出口付近の最後の小部屋に展示されていた彫刻は、さながらジャン・ロレンツォ・ベルニーニのようなバロック彫刻を彷彿とさせるような古典性、官能性まで備えているようで、素晴らしかったです。