「関西の80年代」展(兵庫県立美術館)


 兵庫県立美術館で開催されていた「関西の80年代」展、夏期講習の合間の日を利用して会期終了間際になってようやく行くことができました。(展覧会は8月21日に終了)
 近年では1980年代の日本のアートシーンをテーマとした展覧会として、金沢21世紀美術館が企画した80年代展(「起点としての80年代」2018年)と、国立国際美術館が企画した80年代展(「ニューウェイブ 現代美術の80年代」2018年)がありました。そのどちらも観にいきましたが、今回の兵庫県立美術館の80年代展は、先の2つの展覧会に比べると一人の作家あたりの展示スペースも広く、兵庫県立美術館の大きな空間のなかで作品をよりよく観ることができました。
 また当時のアートシーンの中でも関西に焦点を絞ったため、担当の学芸員によってよりリサーチが行き届いている印象を受けました。とりわけ当時関西在住だった辰野登恵子さんの若い画家たちへの影響や、京都芸大の学生たちへの福島敬恭さんの影響力、そしてアートネットワーク展で鴨川に展示された藤浩志さんの「鯉のぼり」や、京都アンデパンダン展での小杉+安藤の作品への注目などは今回の展覧会の評価すべき点だと思いました。
 何より会場に漂う陽性の雰囲気が心地よく、見ていて楽しい展覧会だったと思います。

 私は今回の展覧会に出ている作品の多くをリアルタイムで見ているので、80年代当時の状況から切り離された作品を3〜40年を経て見直したときどのように見えるかに興味がありましたが、やはり当時の記憶がオーバーラップして客観的に見るのは難しいですね。

 展示されているもののいくつかは、制作しているところを直に見ていたり、搬入を手伝ったり、一緒にグループ展をしたり飲みにいったりした作者の作品でもあるので、他者の作品ではあるもののあまり距離をとって判断できないということもあります。作品そのものがどうかということを超えて、丸ごと私にとっての80年代の体験の中にあるという感じです。

 90年代になると、湾岸戦争に始まり、バブル経済の崩壊、ボスニア紛争、阪神淡路大震災、酒鬼薔薇事件、地下鉄サリン事件などが続け様に起こり、私にとっても急激に「"表現" にとって難しい時代になったな」という実感がありました。アートは個人から発するものであったとしても、その個人はやはり社会的な「現実」との対峙を余儀なくされるからです。(とりわけボスニア紛争と阪神淡路大震災は私にとっても大変リアルな問題を突きつける事件でした。)実際、90年代のアートは、シミュレーショニズムやネオポップなど、80年代のアートの持っていたある種の楽天性はなくなっていったように感じます。

 今にして思えば、80年代のアートは ー大変雑な言い方ですがー 東西冷戦のはざまに特例的に生じたユートピア的な表現群だったと言えるのかも知れません。

 ただ、上記の金沢21世紀美術館の80年代展のタイトル「起点としての80年代」が示唆するように、80年代に萌芽した新しい表現形式(インスタレーションやビデオアート、パフォーマンス、ジャンルのハイブリッド性など)や、内容(私小説性、物語性の復活、バナキュラー性、美術史や歴史からの引用など)、そして表現の多様性の肯定や、手仕事性への回帰といった80年代アートの特徴は、それ以降のアートへと引き継がれて現在に至っています。実際、現在活動している次世代以降の作家たちの表現の中に80年代アートのDNAを感じることがよくあります。

 今回の「関西の80年代」展の副題「80年代は過去じゃない」というのも、そういう意味ではないかと思っています。(Y.O.)