西芳寺(苔寺)の庭

 台風の次の日、洛西・松尾にある西芳寺を訪れました。
 苔寺とも呼ばれるこのお寺は、鎌倉時代末期〜南北朝時代〜室町時代初期の禅僧・夢窓疎石の設計した庭園で有名です。
 西芳寺の起源は飛鳥時代に遡るとされていますが、様々な経歴を経て1339年に夢窓疎石によって再興されました。それ以降も、何度も戦乱に巻き込まれて荒廃したり、再興されながら現在に至るようです。

 私は学生時代以来長らく京都や京都周辺に住んでいて、その上学生時代にはこの西芳寺の近くと言っていい場所に下宿していたにもかかわらず、実は西芳寺を訪れるのは今回が初めてです。苔寺の庭が素晴らしい、ということは学生時代から知ってはいましたが、西芳寺の拝観は往復はがきでの事前申し込みが必要だということで、思い立った時にパッと見に行くということができないことから、なかなかきっかけがつかめずのびのびになっていました(35年以上も!)。

 
 この日は朝10時の開門ということで、その少し前に山門前に行くと、もうたくさんのお客さんが開門を待っています。時間通りに開門し、入場の手続きの後、本堂の方で写経とその奉納があり、その後、庭の拝観が始まります。

 

 西方寺庭園は、中央の「黄金池」の周りを巡る回遊式の庭園のエリアと、その上部の山の斜面を利用して作られた枯山水のエリアに大きく分かれています。
 「庭園入口」と書かれた方向へ進むや否やすぐに緑の世界がいっぱいに広がります。それに誘われるように細い通路をゆっくりと進んで行くと、一歩一歩のあゆみの度に庭の表情も変化していきます。自然の地形を生かして高低差を作ったり、池の中に作られた島との距離が変化したり、ところどこに見え隠れする石組みの妙といった設計段階での工夫もあることと思いますが、さらには植えてある樹々の種類やその間隔などのバランスが絶妙で、それによって空間の見え方が非常に豊かなものになっているのです。そして何より庭園を一面に覆い尽くす苔の存在があります。解説によると120種類もの苔が見られるとのことですが、庭園の全体を苔が柔らかく覆い尽くし、様々な表情が生まれています。

 

 今の様子からは想像しにくいことですが、夢窓疎石が設計した当初は、この庭園はこのように苔に覆われていなかったそうです。足利義満や足利義政が金閣や銀閣を作った時にこの庭園を参考にしたというのも、もとは苔のない庭だったと言われれば頷けます。このように庭園全体が苔に覆われるようになったのは江戸後期からとのことですが、恐らく江戸時代に寺が荒廃した時期があり、庭の手入れがされなくなった間に徐々に苔が繁茂していったのではないかと推測します。
 以前、NHKでこの西芳寺庭園のことを特集した番組を見たことがありますが、その番組では、なぜ西芳寺庭園では様々な種類の苔が繁茂しているのか、そのための条件をこの松尾の地形を手掛かりに読み解いていました。それによると、この寺が山間にあり小川のほとりに位置していること、そして山間からこの寺に流れ込んでくる湿度を帯びた空気が苔を育むために理想的な状況を作っていることなどが挙げられていました。(また、山間の地形が今と少しでも異なっていれば、今のような様相にはなっていなかったということも付け加えられていたと記憶しています。)
そのように考えると、この西芳寺庭園は、夢窓国師による基本的な構造と、洛西・松尾の自然・風土が融合して生じた奇跡的な造形物だということができるでしょう。

 

 そしてさらには、こうした景観を守り続けてきた庭師の存在があると思います。例えば、この庭が長い歴史を持っているということは、長い年月の間に巨木になっている木があってもいいはずですが、見渡してみてもこの庭の中に巨木と言える木は見つかりません。巨木はこの庭の空間にとって存在感のあるものになりすぎ、枝が茂って庭が暗くなったり見通しが悪くなったりするでしょうから、恐らく巨木になる前に伐っているのでしょうし、植わっている木々も適切に剪定されていて、木がたくさんあるのにも関わらず庭が空間的に見通せるようになっています。また前述のように、木の種類の組み合わせや間隔などのバランスをとることによってお互いが引き立てあったり、見え方が変化したりなどの効果が生じています。そして、この庭を特徴付けている苔自体も決して安定したものではなく、それぞれの季節ごとの気候の変化に対応してかなり繊細なケアをしているのではないかと想像します。そうした庭の見え方の実際に関わる最も大きな部分は昔も今も庭師の仕事が占めているのでしょう。

 この庭は、夢窓疎石が設計したものでありながら、自然の力によって予想外に変化していき、そして庭師がその変化の細部を(それも作為的に見えないようなやり方で)コントロールしたもの、その総体として今ここにある、ということになります。夢窓疎石が抱いてた元々のコンセプトからは離れてしまっているかもしれませんが、自然や時間という大きな流れの中での変化を受け入れることでこの庭のもつ意味が変容していき、そのことによって独自の美しさが現れているように思うのです。
 話は少し逸れるかもしれませんが、画家・宇佐美圭司は著書「廃墟巡礼」(岩波新書)の中で、タイ・アユタヤにある仏教遺跡を訪れた際に見た、遺跡の中に崩れ半壊しながらも並んで座す土の仏像たちについて次のように書いています。
 アユタヤの仏たちは、まるで命あるもののごとく私の前に現れたのだった。すべての像から首がもぎ取られているが、座して祈る姿を失ってはいない。仏の個性を示す顔や手の表情がなくなり、むしろ祈りの純粋さが強調されている。頭部や手の欠落は、像の自己完結性を壊している。しかしその自己完結していないことこそが、アユタヤの仏たちを命あるもののように私に見せしめたのだ。(中略)
 これらの像と向かい合うと、その傷口のあまりの生々しさに、人間の破壊と風雨の数百年のなかで、その差異性を生成させたことの奇跡を思わずにはいられなかった。陽射しのもとの仏像たちは、背後のむき出しのレンガ壁と一体化して、創建当時にはなかった多様性として存在し直していたのである。(中略)
 崩壊することは、同時に、崩壊することによって発現する新たな可能性の一つなのだ。(中略)眼前に展開する世界は一瞬一瞬古びていき、そのときが同時に新たな生成に手を貸しているのである。

 

 西方寺庭園はアユタヤの仏像のように「崩壊した」ものではありませんが、元々の様相が外的な力によって大きく変化させられた、という意味では同じものとして考えることもできます。
 著書の中の別のところにある宇佐美の言葉を借りて言えば、西芳寺庭園は永遠の「未完成態」と言えるのではないかと思います。「未完成態」とは生き物のように自己非完結的なるものであり、それゆえ外部とのやり取りの中で常に生成変化し続けます。
 季節の移り変わりに伴う様相の変化や、季節の変遷がさらに積み重なっていくという大きな流れの中で、他なるものを受け入れながら生成変化し続ける庭。そういう意味では庭は常にプロセスの中にあると言えます。そして庭というものがそのようなものであればこそ、一歩一歩のあゆみの際にみる一瞬の木漏れ陽のきらめきや水面の揺らぎの中にかけがえのない「今」を感じるのだ、と思います。(Y.O.)