今日は大阪・河内長野の天野山金剛寺に行ってきました。
天野山金剛寺にはとても好きな「日月山水図屏風」という絵があり、年に2回(5/5と11/3)のみ一般公開されています。この日だけは座敷におかれて、ガラス越しでない状態でかなり間近にじっくりと観ることができます。
この事は以前から知っていたものの都合で今まで行けず延び延びになっていました。今年こそは是非行きたいとこの機会を楽しみにしていたのです。
天野山金剛寺は河内長野の山中にある1000年以上の歴史を誇る真言密教のお寺で、女人高野としても知られているとの事です。現在は本堂が300年ぶりの大修理の最中との事で、すっぽりと覆われていて拝観できませんが、多宝塔など堂々とした造りで見事なものだと思いました。
宝物殿に入り、回廊を回って「日月山水図屏風」のおかれている建物に向かう途中、大変素晴らしいお庭を楽しむことができます。
さて、お目当ての「日月山水図屏風」です。この屏風は以前に博物館でガラス越しに観たことがあります。今回は間近にこころゆくまで堪能させていただきましたが、大変ユニークな絵だと改めて思いました。
16世紀後半(室町時代)の土佐派の画工の作とされていますが、同時代の作品でこのようなスタイルの絵は他に見たことがありません。むしろ後の宗達(桃山〜江戸初期)を彷彿とさせるような絵面(えづら)で、宗達の俵屋工房の作だと言われても信じます。この絵が京都から離れた山の中にあり仏具(灌頂などの儀式の際に用いられた)であった事を思えば、宗達がこれを観たことはあまり考えられませんが、後に宗達が復興させる平安時代の「やまと絵」の伝統は、実は水面下では(土佐派などによって?)脈々と連続性を持っていたと考えた方がいいのかもしれません。
それにしても観れば観るほど「へんてこりんな(良い意味で)」絵です。
六曲一双の画面の中に春夏秋冬の山々を表現しているのですが、既成の型にはまって描いているという感じが全くなく、良く言えば自由奔放、悪く言えば思いつくままに描いているという印象です。絵面的には非常に折衷的です。しかし、だからといって散漫な表現になっていないのは、山々、波、松の木、雲の形などのうねうねとした柔らかい曲線的な形態感の生み出すリズムが、画面上に生気を持ってみなぎっているからでしょう。(色数がかなり限定されていることも画面のまとまりを与えていますが、こちらは剥落や変色も考えられます。)
こんもりと盛り上がった山の端、左はしの滝のある岩場の部分、波の中の岩の形、松の幹の曲線など、墨色で引き締まった部分が全体のリズム感を強調してもいます。
細部を丁寧に観ていると、全体的にヘタウマ風の線の引き方や色の塗り方だし、左の浜に生えてる松の形など「ありえない」って感じで絡んでいるところもあるし、なんで山からチョロチョロと木が出ているところと出てないところがあるんだ?などなど突っ込みどころ満載の絵でもあるのですが、それが逆にこちらの想像力を刺激してきて楽しいのです。
大向こうを唸らせるような絢爛豪華さや取り付く島のないような完璧な技巧を誇るのではなく、むしろ全体的に何とも素朴で大らかな味わいがあり、手作りのじんわりとした魅力があります。そして何より、現実にある風景をモデルにしながらこの世のものでないような神秘性をたたえています。李朝の民画や中世イタリアのシエナ派の絵画にも通じるようなこのような感じが最も僕が魅力を感じるところなのだと思いました。
やっぱり生(ガラス越しじゃない状態でみること)は作者の息づかいや絵の持つ物質感がリアルに感じられるのでいいですね。
新緑の季節でもあり、天気もよくて、清々しい気持ちで絵もお寺も楽しむことができました。(Y.O.)
(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2012年5月5日付けの投稿を転載したものです。)