京都市立芸術大学教授で、現在京都市美術館の館長も兼任されている潮江宏三先生が、ご自身の退官記念展として長年研究されてきたウィリアム・ブレイクに関する展覧会を開催されたので、先日観に行ってきました。( 潮江先生は、「世界の素描14 ブレイク」(講談社)や「銅版画師ウィリアム・ブレイク」(京都書院)といった本も出されています。)
ウィリアム・ブレイクは18世紀後半〜19世紀はじめ頃のイギリスの画家・詩人ですが、生活していく上で彼は「銅版画師」という職業を選びました。絵画の複製や本のイラストレーションとして、銅版画師の需要はたくさんあったからです。
この展覧会の展示は、ブレイクが生きた18世紀後半〜19世紀はじめ頃の銅版画のスタイルの紹介から始まり、ブレイクの師匠や仲間たちの作品、そしてブレイクが手がけた自分自身の作品や銅版画師として注文された仕事の数々が展示されています。一部ファクシミル(精巧な複製)もありますが、大部分は先生ご自身のコレクションや京都市立芸術大学の蔵品という事でした。
僕が見に行った12月17日は潮江先生によるギャラリートークがありました。
ブレイクが日本では特に詩人として知られている事、大正〜昭和初期には白樺派の紹介等で非常に有名な存在であった、などの説明から始まり、当時の銅版画が絵画の複製をいかに再現するかというテーマで様々なテクニックが開発されたという背景や、それゆえ当時の絵画の流行が版画にも反映している事、ブレイク自身は自分の師匠を選ぶにあたって「古くさい」スタイルの師匠を選び、ブレイク自身も後年、同じように「古くさい」技術を評価し自分自身もそうした技術で制作した事、そしてさらには彼の造形や思想はラファエロ前派の画家たちやウィリアム・モリスなどに大きな影響を与えていったこと・・・、などが、ブレイクの生業であった「銅版画師」という側面を強調することによってありありと見えてきました。また同時に、ブレイクが同時代的にいかに特異な存在であったかという事も浮かびあがってきます。
僕自身がブレイクを知ったのは大学入学後すぐに潮江先生によってご教示されたからです。その後ロンドンのテートギャラリーでオリジナルの水彩を見る機会もありましたし、彼の詩も読みましたが、その頃の僕には正直あまりピンと来るものではありませんでした。その頃の僕はもっと感覚的であったり、表現主義的であるような芸術に惹かれていたからです。それ以来僕もブレイクを忘れていましたが、今回このような機会で改めて接してみると、ブレイクという、その思想、その魂のありかた、そしてその造形は、今や僕のすぐそばにある事がわかります。
この30年ぶりくらいの邂逅をきっかけにして、とりあえず詩から読み直してみようと思います。(Y.0.)
(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年12月19日付けの投稿を転載したものです。).