ピアノ夜話 その7/高橋悠治のジョン・ケージ「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」

 

高橋悠治の存在を教えてくれたのは、やはりM先生でした。と言っても80年代、学生時代の話です。いつのことだったか正確な年は忘れましたが、何かの折り、梅田の紀伊国屋の音楽書のコーナーで「君が読むならこれが良いだろう」と、何冊か出ていた高橋悠治の著作の中から「たたかう音楽」を推薦してくれたのでした。ちなみに、M先生には柄谷行人の「探究1」や中上健次の小説、藤枝晃雄のフォーマリズム批評のことなど、後に僕のなかで大きな存在になる書物のことも教えてもらいました。

大学時代にはいろいろな先輩や同級生に、読んでおくべき、観ておくべき、聴いておくべき、本や映画や美術作品や音楽のことを示唆してもらったものです。
思いつくままに例を挙げれば、今は漫画家のS先輩には浅田彰の「逃走論」を、今は郵便局長のY先輩にはメルロ・ポンティと草間彌生の名前を、今は環境計画をしているM女史にはタルコフスキーの「ノスタルジア」を、今は陶芸家のS氏にはアンゲロプロスの「シテール島への船出」と蓮實重彦の「表層批評宣言」のことを、今は芸術学を研究しているD女史にはガルシア=マルケスの「百年の孤独」のことを、今はアメリカでデザイナーをしているT先輩にはフェリーニの「8・1/2」と「武満徹」の名前の読み方を、今は大学教師のW君には岡本太郎の「今日の芸術」のことを・・・などなど、大学時代に知ったこうした知識が幹となって、枝葉を広げていくことができたと思います。とりわけ、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」という小説のことを知ったのは僕にとって決定的な事件で、この小説に出会っていなかったら今頃絵を描いていないかもしれないくらいです。(Dさん、この場を借りて御礼申し上げます。)

 

 

高橋悠治はクラシックや現代音楽を演奏するピアニストという枠に留まらず、作曲家として、著述家として、コンピューターを使った即興演奏、そして「水牛楽団」という民衆のためのうたを演奏するグループを組織するなど、その活動は多岐に渡っていますが、僕は、前述のように、彼の音楽よりも前に著作によって彼を知りました。

「たたかう音楽」「音楽のおしえ」など、その頃読んだ著作で印象に残ったのは、バッハやベートーヴェンといった今や権威になってしまった音楽とそれを取り巻く状況に対する歯に衣着せぬ批判や、オーケストラという指揮者を頂点としたハイアラーキー的組織ではなく、オーケストラを構成する団員自身が自発性を持って音楽を生み出していくような自主管理的な組織論の提案、そして、音楽が権力者のための道具や贅沢品に成り下がるのではなく、音楽が人々とともにある「生きるための音楽」を生み出すためにどのように実践すべきか、といった内容です。そして、そのような現代の音楽を巡る状況に対する批判的な姿勢と、来るべき新しい音楽を指向する非常に精緻な考察に大きな影響を受けました。
その一方、少し遅れて耳にしたエリック・サティやバッハの「フーガの技法」など、彼のピアノの演奏のあたかも夢見るようなトーンにも魅了されました。(著作から読み取ったトーンとの間に大きなギャップを感じたのは事実ですが。)

その後、彼の著作や発言、リリースされた音源を追いながら、いろいろな音楽や書物の存在を知ることができました。それは、シューマン、バルトーク、クセナキス、メシアン、ホセ・マセダ、グバイドゥーリナ、カラワンといった音楽家から、ソクラテス以前のギリシア哲学、老子、インド哲学、初期仏典、ウ゛ィトゲンシュタイン、カフカ、身体論などの著作の数々に至ります。(それらの全てを消化できているわけではなく、今も棚に積まれたままになっているものも多いのですが・・・。)

ジョン・ケージも、ちゃんと聴いたのは、この高橋氏の演奏「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」が初めてです。ケージの音楽は学生時代にはなかなか手に入れにくかったし、見つけたとしても、良いかどうかわからない「前衛的な」音楽を生活費を削って買うのはかなり勇気がいりましたから・・・。
この演奏はもっとずっと後になって聴いたのですが、一聴して即座に気に入ってしまいました。こんなに面白くて美しい音楽ならばもっと早く聴いておけば良かった、と思いました。
第1印象は、「ガムランみたい」というものでした。ガムランのように残響が延びていくことはないのですが、その音階やリズムが東南アジアの音楽をイメージさせるように感じられたのです。

プリペアード・ピアノとは、ピアノから意外性のある音が出るように、ボルトやねじやゴムやプラスチック片や木片などをピアノ内部の弦の間に挟み込むことで準備(プリペアー)されたピアノのことです。それによって、ピアノという近代音楽を象徴するかのような楽器の脱構築、すなわち、その「美しい」が同時に制度的になってしまってもいる音色を変化させ、あたかも打楽器のような非常にプリミティブな楽器へと変貌させて、近代音楽によって位置づけられ拘束されたピアノという存在のあり方を解放することが目論まれているように思います。
まあ、そうした意図があっても、出てくる音が良くなければ、つまらない音楽になってしまうでしょうが、この演奏で高橋氏がプリペアーしたピアノからは、飛び出した音の粒子が空間をキラキラしながら舞い踊ったり、部屋の隅で音同士がヒソヒソと内緒話をしたり、目の前で追いかけっこをしたり、音と音が互いに呼び交していたり・・・など、そんなすごく可愛い音たちを、いつまでも見つめていたいような気持ちにさせられます。

「プリペアード・ピアノのためのソナタとインターリュード」という音楽は、ピアノのプリペアーのされ方によって、同じ楽譜であっても演奏される度に出てくる音は変わってくることでしょうし、また、一回の演奏内であっても、同じ音を次に弾いても同じようには音が出るとは限らないのではないかと想像します。一度音を出すと弦が振動して、挟み込まれた「異物」の状態が変化するでしょうから。演奏者は楽譜をみて、出てくる音とのギャップを常に感じ、楽譜と実音との関係をリアルタイムで再構築しながら演奏することを余儀なくされるのではないでしょうか。
そのようなケージの音楽は一般的に「偶然性の音楽」として理解されています。しかし、僕は「偶然性」という何だか無害な響きのむこうに、厳粛な何かがあるように思えるのです。突き詰めて考えていけば、全ての音楽は宿命的に一回性のものであることを、どんなに普遍的なものを目指そうとも、現実的には「偶然の織物(タペストリー)」の中に奇跡的に、そして一回ごとにその都度新たなものとして生まれるような存在であること・・人間や、この世界の有り様と同じように・・を、改めて思い起こさせるのです。(Y.O.)

 

(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年5月1日付けの投稿を転載したものです。)