「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へ」(香川県立ミュージアム)/イサム・ノグチ庭園美術館


「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へ」展のカタログ

イサム・ノグチ庭園美術館

イサム家

「丸」の外側より

新しい教室の開設準備の真っ最中の5月3日、香川県高松市で開催中の「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へ」展(香川県立ミュージアム)を観に行ってきました。

イサム・ノグチが亡くなったのは私が大学院を出た年なので、学生時代は存命だったのですが、その頃から私にとってノグチは名前は有名でもどんな仕事をしているのかあまりはっきりとはわからない作家でした。今のようにネットで検索すればいろんな画像が出てくる時代ではなく、現代美術を扱う雑誌も少ない上に、ミニマリズム、ニューペインティング、シミュレーショニズムなどといった80年代のアートの傾向とは隔絶したノグチの仕事を大きく紹介する雑誌もあまりなかったのではないかと思います。

1986年にヴェネツィア・ビエンナーレに出品した子どものための螺旋形の大理石の滑り台「スライド・マントラ」はリアルタイムで美術手帖で見て、面白い作品だ、と思いましたが、あまりにも有名なあの丸い提灯(「AKARI」)以外は「黒い太陽」や「チェイス・マンハッタン銀行のための沈床園」など2~3の作品しか知りませんでした。その人となりに関する話も「ブランクーシの弟子だったらしい」とか、「バックミンスター・フラーの友人だったらしい」とか、はたまたフリーダ・カーロの伝記中にも登場したり、「香川県の牟礼で石彫を制作しているらしい」とか、断片的なものでした。

 

そんなそんな断片が繋がってノグチの人生と旅と制作の全容がわかったのは、それからかなり経って、ドウス昌代によるノグチの伝記「イサム・ノグチー宿命の越境者」を読んでからです。この本は、日本人の父とアメリカ人の母との間にロサンゼルスで生まれたノグチの、その生涯を通じての作品を創造することへの途切れることのない情熱と、コスモポリタンとしての生き方、芸術のジャンルを越えようとする意思、そしてその背後にある「自分は何者なのか」ということの探求の軌跡を、膨大な資料や取材によって(時にかなり赤裸々に)描き出した労作でした。

 

今回の「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へ」展は、ノグチの若い頃の肖像彫刻家としての作品から、中国や日本に滞在中に制作したドローイングや陶芸作品、舞踊家のマーサ・グラハムとのコラボレーションによる作品と資料、日本でのインテリアデザインや実現されなかった原爆慰霊碑などのモニュメントのマケットや資料、世界各地に作った庭園のマケット、後年「モエレ沼公園」へと結実する環境彫刻のマケット、そして牟礼での石彫作品まで多岐にわたるものです。

私にとっては、本展は、本などで知っていただけの作品の実作を観ながらノグチの仕事の「可能性の中心」を考えるいい機会になりました。

展覧会の副題に「彫刻から身体・庭へ」とあるように、彫刻がたんに見られるものとしてだけでなく、それを見る人の身体に直接に関わること。いわば「体験される」ものとしての彫刻の延長上に庭園や公園の計画もあったのだということです。それは、若き日のノグチが世界各地の遺跡を見て回る中で、その土地の風土の中で人間の作り出した建造物や彫刻などがいかに人間そのものと関わり、環境そのものと関わり、宇宙と交感しているのかを体験したことから志向された仕事であるようにも思われました。

 

今回の香川行きで楽しみだったことがもう一つあります。ノグチが晩年、石彫を制作していた牟礼の仕事場が現在は「イサム・ノグチ庭園美術館」として公開されているのですが、念願だったこの美術館をようやく訪れることができました。

まず予約した時間に受付の建物に行き簡単な説明を受けた後、「イサム家(や)」(ノグチが牟礼滞在中に住んでいた古い邸宅)、晩年にノグチがデザインした庭園、ノグチと職人たちが制作していた「丸」と呼ばれるサークル状に石垣で仕切られた仕事場の空間とそこに置かれた未完の作品たち、そして自作の展示ギャラリーとして移築された巨大な蔵と、順次敷地内を案内を交えつつ巡って行きます。

 

箒で丁寧に掃き清められた敷地内を歩いていると、ノグチが亡くなった時以来そのままの状態で大切に保存された作品たち、仕事場の建物や木々、さらには周囲の環境などが一体となって、ここでノグチが何をやろうとしたのかを語りかけてくるように思えてきます。

ここにある作品は、巨大な黒御影石による大作「エナジー・ヴォイド」のような一点の作品として完結した完成度の高いものもありますが、特に「丸」内には、どれが完成でどれが未完なのか判然としないような大小の作品が置かれています。一点一点は作品として完結していなくとも、そうであるがゆえにそれぞれの作品同士が緩やかに関係しあい、周囲の状況や牟礼の風土とも関係しあって、「環境としての彫刻空間」を創出しているように感じられました。こうした「環境としての彫刻空間」は、「彫刻」や「絵画」といった芸術内のジャンルの制度的な規制が強かった時代にはなかなか理解されなかったでしょう。戦前からジャンルの垣根を飛び越えるような作品を志向していたノグチの仕事は、そのような瘴壁が弱まった現在のような状況でこそ(先駆的な存在として)理解されやすくなったのではないかと思います。

今回の香川行きに同行した息子が面白い発見をしました。「丸」の真ん中あたりに道具類をしまったり休憩したりするための蔵のような建物が建っているのですが、その中の将棋台に座って建物の中から「丸」内に点在する未完の作品群を眺めると、建物の入り口の枠で「丸」の光景が切り取られて一幅の絵のようだと言うのです。確かに言われるように見てみると、石彫が枯山水の庭園の石のようでもあり、「丸」を仕切る石垣が(龍安寺の油土塀のように)周囲から「丸」を遮断し、その背後にはさながら借景のように屋島の山が見えます。そしてその光景を建物の入り口の枠が切り取っているのですが、これは日本庭園の鑑賞のされ方と似たものを感じます。きっとノグチもこの将棋台に座って日本庭園をみるような感覚で「丸」の光景を眺めたのではないか、と思いました。

1時間に制限された見学時間はノグチの作品や庭園を味わうためには十分とは言えませんでしたが、気持ちのいい余韻を身体に残しつつ帰途につくことができました。

ノグチの「環境としての彫刻空間」の集大成としての仕事は、ノグチの没後17年後に完成した札幌の「モエレ沼公園」として結実しますが(その詳細は「建設ドキュメント1988ー イサム・ノグチとモエレ沼公園」(川村純一、斉藤浩二/著)に書かれています)、いつかそれを見に行きたいなと思います。(Y.O.)

イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へ」展プレスリリース

 

イサム・ノグチ庭園美術館