ピアノ夜話 その3/番外編「音楽を聴くということ」

 

最初に買ったCDはグールドの「ゴールドベルク」だったことは前回書きましたが、最初に買ったLPレコードはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でした。1976年、中学一年生の時。ビートルズのレコードを買いにレコード屋に行って、たくさん出ているビートルズの中からどれを買おうかさんざん悩んで、結局これにしたのでした。理由はジャケットのデザインが派手でにぎやかで見飽きないものだったから、そして帯に「最高傑作」と書いてあったから。わくわくしながら急いで家に帰って聴いてみると、まずヒット曲のような曲が全くなく、こまごました曲ばかりがメドレーのように並んでいて、がっかりしてしまいました。インド音楽みたいな曲もあるし、なんか変なアルバムだ、とも思いました。でも何回か聴いているうちに、その構成の面白さやカラフルな音のバリエーションの豊かさに魅力を感じて来て、気がつくとズッポリとはまってしまっていました。インド音楽みたいな「Within you without you」やラストの変な曲「A day in the life」なんかもいつしか最高に面白くなって来ました。

 

毎日毎日、中学校から飛んで帰って来ては、床の間の上に置いてあったとてもチープな(なんとプラスチック製の)ポータブルレコードプレーヤーにいそいそとレコード盤を置きます。盤の上に針をのせ、ゆっくり回転する溝のうねりを飽きずに見続けながら、左右のスピーカーの間に頭を突っ込むようにしてひたすらビートルズのこのレコードを聴き続けました。全曲聴き終わるとまたA面に戻して最初から聴き続けます。そしてそれも聴き終わるとまたもう一度・・・。こうして毎日毎日同じ一枚のレコードを飽きることなく、まさに擦り切れるほど聴き続けました。どうしてそんな風に夢中になってしまったのでしょうか、理由はわかりません。何か今の自分とは別のどこか遠くにあるすごい世界に対する憧れと、それを全力で無心に吸収しようとしていた時期だったのかも知れません。

後年、旧ユーゴスラヴィア(現スロウ゛ェニア)出身のアーティストの友達ヨーゼ・スラクさんと話していたら、彼も若い頃、そんな風に取り憑かれるように音楽を聴いた時期があったと言っていました。旧ユーゴスラヴィアは社会主義の国だったのでロックは御法度でしたから、スイスの通販会社を通じてジミヘンの「エレクトリック・レディランド」のレコードをなんとか取り寄せ、それを「百万回」聴いていたそうです。そしてラジオ・ルクセンブルグの短波放送から流れてくる雑音まみれのロックを夢中で聴いていたそうです。ラジオに耳をくっつけるように雑音の中から聞こえてくる音楽に耳を傾けているヨーゼ少年を想像して、「ご同輩、あなたもそうだったのか」と妙に感じ入ってしまいました。ただ、社会主義体制の中、ご禁制の音楽をなんとかして聴こうという、別世界の文化に対するその飢え乾き方は僕の場合とは比較にならないほど強烈なものだっただろうとは思いましたが。
そういえば、僕の弟も中学時代のある一時期、高中正義の「虹伝説」を四六時中鳴らして僕を辟易させましたが、音楽が好きになった少年少女は必ず一時期そういう風になるものなのかも知れません。

ただ、今はそういう聴き方をすることはまれになってしまいました。音楽はパソコンをクリックするだけで通販で簡単に手に入るし、コンサートなどに行けば別ですが、アナログレコードのように音が生まれ出る様をリアルに見ることもなく、データ化されたシグナルをブラックボックスが再生してそれをカジュアルに楽しむ、という感じになっています。そうした状況が悪いことだとは思いません。でも、アナログレコードの溝に刻み込まれている全ての音をなんとか聴き漏らさないようにチープなスピーカーに耳をくっつけていた時期が僕の原点であり、それを忘れたくはないなと思います。(Y.O.)

 

(この文章は、松尾美術研究室のブログ "マツオ・アートログ”への2011年4月26日付けの投稿を転載したものです。)